【代々木八幡宮】一人でも大丈夫?渋谷の森と800年前の物語

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代々木八幡宮の境内 一人旅

皆さまごきげんよう、歴史好き看護師のジュリー・ジョリーです。

9月のはじめ、雨の日に、渋谷区の代々木八幡宮をひとりで歩いてきました。

正直に言うと、出かける前の私は「都会の神社だし、近代的に整備されているところなんだろうな」と思っていました。だから雨の日でも問題ないだろう、と。

ところが、近づくにつれて見えてきた鳥居。それを見上げたとき。

森でした。大通りに面した、その場所が。

そしてこの森がなぜここにあるのかをたどっていくと、800年前の鎌倉で起きた、ある事件に行き当たりました。

この記事でわかること

  • 代々木八幡宮を一人で参拝するときの歩き方(雨の日の注意点も)
  • この神社が、鎌倉で命を落とした二代将軍・源頼家のために建てられたということ
  • 出世稲荷社にいる、たくさんの狐たちの正体
  • 御朱印をいただいた実際の流れと、雨の日の混み具合
  • ※お参りの実務(御朱印・所要時間・雨の日の靴)だけ知りたい方は、目次から「御朱印と、雨の日の参拝の実際」へどうぞ。

都会のど真ん中に、突然あらわれる森

代々木八幡宮の一の鳥居

小田急線の代々木八幡駅、東京メトロ千代田線の代々木公園駅。どちらからも歩いてすぐの場所に、その鳥居は立っています。

大通り沿いです。車が走っていて、人が行き交っていて、ごく普通の東京の風景。そのなかに、鳥居がありました。

見上げた瞬間、空気が変わったのが分かりました。うまく言えないのですが、「呼ばれている」という感じ。この先は別の場所ですよ、と言われているような感覚です。

石段をのぼりきると、もうそこは森の中でした。

たとえではありません。木が高くて、頭の上が緑でふさがっていて、雨の音がさっきまでとは違って聞こえる。本当に東京でしょうか、ここは。

私は東京生まれの東京育ちです。それなのに、自分の知らない東京が、まだこんなところに残っていました。

そして、もうひとつ不思議だったことがあります。

車の音が、聞こえないんです。

すぐそこは大通りなのに。石段をいくつか上がっただけなのに。神社の七不思議、と言ってしまいたくなりました。

すぐ近くには明治神宮があります。あちらもすばらしい杜ですが、いつ行っても人が多い。それに比べて代々木八幡宮は、都会から切り離された異空間、というより「異時代」でした。時間の流れかたが違う場所に、うっかり入り込んでしまったような感覚です。

そして木々を見上げながら、私はこう思いました。

これを守るの、どれだけ大変だったんだろう。

ここは渋谷区です。土地の値段は日本でも指折りの場所です。その真ん中に、森をそのまま残しているということの意味を考えると、代々この杜を守ってこられた氏子のみなさまの信念の強さに、ただただ頭が下がる思いがしました。

ちなみに「雨だし、参拝者は誰もいないんじゃないかな」と思っていたのですが、ちらほらといらっしゃいました。お一人で来ている方も見かけます。広すぎず、迷うほど入り組んでもいなくて、社務所にも人がいる。一人で行って心細くなるタイプの神社ではありません。そこは安心して大丈夫です。

なぜここに森があるのか——主君を失った家臣の8年

森の話から入ったので、ここで一度、800年前に時計を戻させてください。

ひとりの男が、この代々木の野に隠れ住んでいました。

名前を荒井外記智明(あらい げき ちみょう)といいます。

彼が仕えていたのは近藤三郎是茂という武士で、その是茂が仕えていたのが、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家でした。智明にとって頼家は、主君の主君にあたります。

その頼家が、伊豆の修禅寺で亡くなります。元久元年(1204年)、数えでまだ23歳でした。北条氏によって将軍の座を追われ、出家させられ、修禅寺に幽閉された末の死です。

『吾妻鏡』はその死をあっさりと記すだけですが、同じ時代に書かれた『愚管抄』には、刺客に襲われて殺されたとあります(諸説あります)。その殺され方が、ここにはとても書けないほど惨いのです。知りたい方は、ご自分で確かめてみてください。私が読んで思ったのは、ただひとつ、「そこまでしなくても……」でした。政治の都合で始末するだけなら、あそこまでする必要はないはずです。誰かの個人的な恨みがあったとしか、私には思えませんでした。

主君を、殺された。

智明は鎌倉を離れました。そして武蔵国豊島郡代々木野——今の代々木です——に隠れ住み、名を改めて、亡き主君の冥福を祈る日々に入ります。(改めた名は、資料によって「宗友」「宗祐」と分かれています)

ここからが、私がこの神社を忘れられない理由です。

智明が小さな祠を建てたのは、建暦2年(1212年)。

頼家が亡くなってから、8年後なんです。

8年。

その8年間ずっと、この人は都の外れの野原で祈っていたことになります。誰が見ているわけでもありません。主君はもういない。仕えるべき家もない。褒めてくれる人も、記録に残してくれる人もいない。

それでも祈り続けて、8年目の8月15日の夜。智明は夢を見ます。鎌倉の八幡大神から、宝珠のような鏡を授かる夢でした。

そして同じ年の9月23日、智明は元八幡と呼ばれる地(今の元代々木町のあたりとされています)に小さな祠を建て、鎌倉の鶴岡八幡宮から御分霊をお迎えしました。

これが、代々木八幡宮のはじまりです。

私が石段をのぼって「森だ」と驚いたあの場所にあるのは、主君を殺された家臣が、都の外れでたったひとり始めた祈りの、その続きなのです。

ちなみにこのお社、はじめから今の場所にあったわけではありません。

江戸時代、火葬場が代々木村に移されることになり、お社は現在地へ遷ることになりました。

そのとき動いたのが、紀州藩主・徳川頼宣の側室であった延寿院殿です。公式サイトの沿革によると、甥にあたる長秀法印のために、社地6,000坪をはじめとする数々の寄進を行い、この遷座を実現させたとのことです。

6,000坪。今の渋谷区でその広さを用意することを考えたら、気が遠くなります。

この話を知ったとき、私は少し泣きそうになりました。

壊さなかったんです。移したんです。

邪魔だから取り壊す、という選択肢だってあったはずです。でも、そうしなかった。土地を用意してでも残した。江戸時代を生きた人たちにとっても、この社は大事なものだったということです。

創建から800年。そのあいだに「この社を守る」と決めた人が、何人も何人もいた。だから私は今日、傘をさしてここに立って、歴史に触れることができている。この土地で生きてきた先人たちの長い列の、いちばん後ろに自分が並んでいるのだと思うと、ありがたいという言葉ではとても足りません。語彙力のなさが悔しいくらいです。

頼家は、本当に「ダメ将軍」だったのか

この記事を書くにあたって、『眠れないほどおもしろい吾妻鏡』(板野博行/王様文庫)を読み返しました。

この本、副題がすごいんです。

「北条氏が脚色した鎌倉幕府の『公式レポート』」

そうなんです。『吾妻鏡』は北条氏のもとでまとめられた歴史書です。そこに描かれる頼家は、蹴鞠ばかりしている、人の話を聞かない、暗君でした。

でも、と思ってしまうのです。

ダメな主君のために、8年も祈り続ける家臣がいるでしょうか。

もちろん智明の話は社伝として伝わるもので、証明できることではありません。智明がただのお人好しだった可能性だってあります。それでも、800年前の誰かがそこまでしたという事実を前にすると、私はどうしても考えてしまうのです。

頼家が父・頼朝の跡を継いで鎌倉殿になったのは、18歳のときでした(征夷大将軍への就任は、その3年後です)。頼朝の急死で、いきなり順番が回ってきた。しかも継いだ直後から有力御家人13人の合議制が敷かれ、自分ひとりで決められることは限られていました。

帝王学を学ぶ時間も、相談できる先輩も、ネットで調べる手段もありません。どうしていいか分からなくて、蹴鞠に逃げていただけなんじゃないか。私にはそう思えて仕方がないのです。

少し話が飛びますが、フランスのルイ16世も同じだと思っています。王になるはずではなかった王子に、革命の時代の王冠が回ってきてしまった。錠前づくりが趣味だった彼が、もし職人やエンジニアとして生きていたら、寿命を全うできたのかもしれません。

蹴鞠が得意、というのも、今で言えば「スポーツができる人」です。将軍という職に向いていなかっただけで、人としてダメだったわけではない。

近年は、頼家を単純な暗君とは見ない研究も出てきています。歴史学者の濱田浩一郎氏は、頼家は政治に積極的で弓の腕にも優れていた、と指摘しているとのことです(諸説あります)。

参考:北条氏に翻弄された「源頼家」ダメ将軍といえぬ訳(東洋経済オンライン)

あの時代は、向いていない席に座らされた人に、そこから降りる自由がありませんでした。

さて。歴史の話を、もう少しだけ続けさせてください。この森には、頼家よりもっとずっと古い時代の痕跡も残っているんです。

参道から左へ。足元は山道、そこに5000年前の家がある

参道横にある、縄文時代へ続く道

お参りの前に、少し寄り道をしました。

参道そのものは、石畳と石の階段で歩きやすく整っています。ところが左手のほうへ入っていくと、様子ががらりと変わりました。

石と土の階段で、手すりがありません。落ち葉も積もっています。

雨の日でした。当然、滑ります。

私もちょっと滑りました。転びはしませんでしたが、ヒヤッとしたのは確かです。後日、代々木がご近所だという同僚にこの話をしたら、「雨の日に行ったの?危なかったでしょ」と言われました。

早く言ってよー。

というわけで、雨の日に行かれる方は靴を選んでください。ヒールやつるつるの靴底は、ここは本当にあぶないです。

そうやって足元を気にしながら進んだ先に、それはありました。

縄文時代の家です。

代々木八幡宮境内の代々木八幡遺跡

竪穴住居が復元されて建っています。茅葺きの屋根が地面まで下りてきていて、想像していたよりずっと大きい。神社の境内に、突然、縄文が置いてあるんです。

これは代々木八幡遺跡といって、昭和25年(1950年)の発掘調査で、たくさんの土器や石器と一緒に住居跡が見つかった場所です。およそ5000年前、縄文時代中期の集落跡とのことで、渋谷区の史跡に指定されています。

5000年前です。

頼家の話をしておいて何ですが、800年なんて最近のことに思えてきます。この高台には、そのころから人が暮らしていた。水が近くて、日当たりがよくて、住みやすい土地だったということです。

そして、つい笑ってしまったことがあります。

ここに住んでいた縄文の人たちは、この土地がのちに日本屈指の高級住宅街になると、予想していたでしょうか。

していないと思います。でも「ここは住みやすい」という感覚だけは、5000年ずっと当たり続けているわけです。人の見る目って、案外変わらないのかもしれません。

もうひとつ。すぐ近くの明治神宮の杜は、大正時代に全国から木を集めて人の手でつくられた人工の森です。あれはあれで壮大な話なのですが、こちらは少し事情が違いました。

公式サイトの沿革によると、この森は江戸時代に植林が行われているとのことです。もとからあった自然に、江戸時代の人が木を足した。そうやって育ってきた森なんですね。

自然のままに見えて、実は人の手も入っている。その両方で、この森はできていました。

何百年も前に木を植えた人がいて、その木が、雨の日の私の頭の上をふさいでくれている。

そう思ったら、見上げている景色の意味が、少し変わりました。

代々木八幡宮のご神木と表忠碑

そのすぐ近くには、ご神木と碑が立っていました。私が見たのは、日露戦争でこの地域から出征した人たちの名前を刻んだ「表忠碑」と、代々木に住んでいた俳人をしのぶ「臼田亜浪の碑」です。神社にお参りに来たはずなのに、縄文にも、近代にも触れてしまう。境内をひとまわりするだけで、時代がいくつも重なっているのが分かります。

ここで、正直に白状しておきます。

私は今回、出土品の展示と、大絵馬を見ていません。

公式サイトによると、遺跡から出た土器や石器は神楽殿の隣の陳列館に収蔵されているとのことです。さらに大絵馬が2枚あり、「神功皇后之図」(天保11年奉納)と「代々木八幡宮縁起絵」(天保12年奉納)、どちらも区の民俗資料に指定されています。

参考:境内案内|代々木八幡宮 公式サイト

気づいたのは、帰ってきてからでした。さきほどの同僚に、もうひとつ言われたんです。

「みた?」

見ていませんでした。またしてもリサーチ不足です。

とくに「代々木八幡宮縁起絵」。縁起絵ということは、あの荒井外記智明の物語が描かれている可能性があります。800年前の話を、180年前の人が絵にして奉納した。そう考えると、どうしても見たくなってしまいました。

実は矢先稲荷神社の天井画のときも、同じことをやっています。調べているつもりで、いつも何かが抜けている。

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浅草・矢先稲荷神社の拝殿には、神武天皇の御世からの馬の歴史を描いた天井画100枚。靴を脱いで上がれば無料で拝観できます。2026年は60年に一度の丙午。田原町駅から徒歩5〜7分、車なしで行けるひとり旅の記録です。

でも私は、これを「神社が、また来い!と言っている」ということにしています。そう思えば、見落としも悪くありません。近いうちに、必ずもう一度うかがいます。

拝殿の右、出世稲荷社にいた狐たちの正体

様々な狐がいる代々木八幡宮の出世稲荷神社

拝殿でお参りをすませて右のほうを見ると、赤い鳥居が並んでいます。

末社の出世稲荷社です。

入ってまず思ったのが、「狐が、いろいろいる」ということでした。

ふつう、お稲荷さんの狐は左右で対になっていて、同じ形をしていることが多いですよね。ところがここは違いました。ひとつの場所に、いろいろな狐がいるんです。

なぜだろう、と思いながら歩いていたら、説明板がありました。

読んで、立ち止まりました。

第二次大戦末期の昭和二十年(一九四五)五月二十五日夜、このあたりは米軍の空襲により大きな被害を受けた。幸い神社は焼け残ったが、周辺は一面焼野原となり、その焼跡には家々で祀っていた稲荷社の祠や神使の狐などが無惨な姿をさらしていた。それらを放置しておくのはもったいないと、有志の人々らが拾い集め、合祀したのがこの稲荷社の最初で戦災の記憶と平和の大切さを偲ぶよすがともなっている。

——境内「出世稲荷社」説明板より

狐がいろいろな姿をしている理由が、ここにありました。

もともと、別々の家で祀られていた狐たちなんです。

それぞれのお宅に、それぞれのお稲荷さんがあった。大きさも、作りも、顔つきも違う。その家の人が手を合わせてきた、その家の狐。それが一夜で焼け出されて、焼け跡に転がっていた。

私が引っかかったのは、説明板のこの言葉です。

「放置しておくのはもったいない」

もったいない。

昭和20年5月25日の夜です。翌朝、あたりは一面の焼け野原。拾い集めた有志の方々だって、自分の家を失っていたかもしれません。生きるだけで精一杯だったはずです。

それなのに、石の狐を放っておけなかった。

手を合わせる対象を、瓦礫のままにしておくことができなかった。誰に頼まれたわけでもないのに、拾い集めて、ここに祀った。

800年前に、主君を悼んでこの社を建てた人がいました。江戸時代に、壊さずに社を移した人たちがいました。そして昭和20年に、焼け跡で狐を拾い集めた人たちがいました。

この神社は、そういう人たちが何かを残していった場所なんだと思います。

説明板は、この稲荷社が「戦災の記憶と平和の大切さを偲ぶよすが」でもある、と結んでいます。出世を願う場所であると同時に、そういう場所でもあるのです。

なお祭礼日は旧暦の初午の日で、その日にはさまざまな祈願をこめた紅白の幟が奉納されるそうです。

ここで私がやらかしたこと

ひとつ、告白があります。

私は、逆回りしてしまいました。

先に参拝されている一組の方がいらしたので、少し離れようと思って右手の道に進んだんです。ところがそこは、参拝を終えた方が出てくる帰り道でした。

順路を確かめなかったのは、確かです。

途中で気づいて、いったん戻り、順路どおりにやり直しました。

神社によっては、めぐる順番が決まっている場所があります。お狐さまに気を取られる前に、順路の表示を確かめてください。私のように、やり直すはめになります。

「恋愛のパワースポット」の話

もうひとつ、書いておきたいことがあります。

代々木に住む友人から、こんな話を聞きました。数年前、ここが恋愛のパワースポットとして有名になり、若い女性がたくさん訪れた時期があったそうです。

なぜ恋愛なんだろう、と不思議に思って、帰ってから調べてみました。

結論から言うと、分かりませんでした。

公式の由緒にも、境内の説明板にも、恋愛に関する記述は見つかりません。出世稲荷社という名前のとおり、本来は仕事運や出世を願う場所です。有名な方がお参りされることで知られるようになり、そのうちに口コミの中で「恋愛」の話に変わっていったのかな、というのが私の推測です。はっきりした出典は、示せません。

ただ、由緒を知ってしまった今の私には、こう思えるのです。

ここは、焼け跡から拾い上げられた狐たちが集まっている場所です。拾ってくれた人がいたから、今もお祀りされている。どんな願いごとを持って来た人にとっても、それはきっと、悪くない場所だと思います。

御朱印と、雨の日の参拝の実際

代々木八幡宮の雨の日の狛犬  代々木八幡宮の御朱印

ひととおり境内を歩いたあと、最後に御朱印をいただきました。

待ち時間は、ゼロでした。

雨の平日だったせいもあると思います。社務所に伺って、御朱印帳をお渡しして、そのまま受けていただけました。人気の神社だと30分待ちということもありますから、これはありがたかったです。

ただし、例祭の日やお正月はまったく別だと思います。時間には余裕を持っておいてください。

公式サイトによると、社務所の受付は午前9時から午後5時まで。お参りそのものは24時間可能とのことです。

参考:よくあるご質問|代々木八幡宮 公式サイト

御朱印は直筆で、初穂料は500円でした(2026年9月時点)。書き置きではなく、その場で書いていただけます。

ちなみに私の滞在時間は、45分でした。写真をたくさん撮るので、ゆっくりめだと思います。お参りと御朱印だけなら20分ほど、縄文の家まで足を延ばすなら30分は見ておくとよさそうです。

そして雨の日に行かれる方へ、もうひとつだけ。

先ほど書いたとおり、境内には手すりのない石と土の階段があります。落ち葉も積もります。滑らない靴で行ってください。それから、御朱印帳を濡らさないように袋をひとつ持っていくと安心だと思います。

とはいえ、雨の代々木八幡宮は、とてもよかったです。

人が少なくて、木の葉が雨を受ける音がずっと聞こえていて、森がしっとりしていて。晴れた日とはまったく違う顔を見せてくれました。雨だからやめておこう、と思っている方がいたら、それはちょっともったいないかもしれません。

800年変わらない日付、そして鎌倉へ

雨の日の代々木八幡宮の参道

最後に、どうしても書いておきたいことがあります。

荒井外記智明が小さな祠を建てた日を、覚えていらっしゃいますか。

建暦2年(1212年)、9月23日です。

そして代々木八幡宮の例祭は、今も——

9月22日・23日に行われています。

800年です。

途中で社は場所を移しました。まわりは焼け野原にもなりました。それでも、日付だけは動かなかった。

主君を失った男が、ひとりで8年祈って、ようやく祠を建てたその日を、800年後の人たちが毎年守り続けている。すごいことだと思いませんか。

2026年の例祭は、9月22日(火)と23日(水・秋分の日)です。なおこの記事は、例祭の参列レポートではありません。私は今回、参列していません。行けたら、あらためて追記します。

この森は、鎌倉から始まっている

もうひとつ。

智明が夢で鏡を授かったのは、鎌倉の八幡大神からでした。彼が御分霊をお迎えしたのは、鶴岡八幡宮です。

つまりこの渋谷の森は、鎌倉から始まっているのです。

私は今月、鎌倉へ行きます。

頼家が生まれ、鎌倉殿となり、そして追われた場所へ。智明が仕え、去っていった場所へ。代々木で見つけた糸を、今度は向こう側からたどってみるつもりです。

その話は、また近いうちに。

⚔️ ジュリーのおすすめ

『眠れないほどおもしろい吾妻鏡 北条氏が脚色した鎌倉幕府の「公式レポート」』(板野博行/王様文庫)

この記事の下敷きになった一冊です。『吾妻鏡』は北条氏のもとでまとめられた歴史書——つまり、勝った側が書いた記録です。それを踏まえて頼家の章を読むと、行間からまったく違うものが見えてきます。歴史が苦手な方でも読みやすい文庫なので、鎌倉へ行く前にぜひ。

「今」に生まれたということ

頼家は、23歳で殺されました。向いていない席に座らされて、そこから降りることも許されないまま。

焼け跡で狐を拾い集めた人たちは、自分の明日の食べ物さえ分からなかったかもしれません。

あの時代は、残酷でした。

それにくらべて、今の私はどうでしょう。

雨の日に、ひとりで、好きな神社へ出かけられる。気になったことを、その場で調べられる。向いていない場所からは、降りることもできる。

なんて恵まれているんだろう、と思うのです。

歴史を知るというのは、昔の人をかわいそうに思うことではないのだと思います。たぶん、今の自分の足元に気づくことです。そして足元に気づけたとき、日々の「整える」は、ぐっとやりやすくなります。

代々木の森は、それを思い出させてくれる場所でした。ひとりで、雨の日に行っても大丈夫です。むしろ、ひとりのほうがいいかもしれません。

整えることで、人生は変えられる。

それではみなさま、ごきげんよう。

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